「幹細胞で脳梗塞を治す」——死んだ神経細胞の代わりに新しい細胞を送り込めばいい。直感的ですが、ほとんど間違いです。MASTERS試験はその素朴なイメージを捨て、狙いを免疫に置きました。英米33施設で発症24〜48時間の脳梗塞患者137例を無作為に振り分け、主要有効性解析の対象は12億個を用いた用量段階(Group 2・3)の126例(細胞65例、プラセボ61例)——細胞治療では珍しい二重盲検プラセボ対照試験です。90日後の答えは——オッズ比1.08、95% 信頼区間0.55–2.09、p=0.83。差は、ありませんでした。
掲載誌情報
- 論文タイトル: Safety and efficacy of multipotent adult progenitor cells in acute ischaemic stroke (MASTERS): a randomised, double-blind, placebo-controlled, phase 2 trial
- 著者: David C Hess(第一著者かつ責任著者)ほか全14名(最終著者Robert W Mays/Athersys社)。所属はMedical College of Georgia, Augusta Universityほか。試験の実施施設は英米33施設で、著者所属とは別です。
- 掲載誌 / ID: The Lancet Neurology 2017年, 16巻5号, 360–368頁。DOI 10.1016/S1474-4422(17)30046-7 / PMID 28320635 / ClinicalTrials.gov NCT01436487
- 査読・掲載日 / Impact Factor: オンライン先行公開2017年3月17日(5月号掲載)。その時点の最新IFは 23.468(JCR 2015年版)。よく引かれる 26.284 はJCR 2016年版で、公表は2017年6月14日——論文が世に出た後です。2026年8月時点は 54.6(JCR 2025年版)、Clinical Neurology分野 296誌中1位。
- オープンアクセス: いいえ(
is_oa = false)。CCライセンスもPMC全文もなく、図表は転載しません。 - 資金・利益相反: スポンサーは Athersys, Inc.(MultiStemの開発企業)。論文自身が「資金提供者は試験デザインとデータ解釈に関与」「従業員1名が執筆委員会に入った」と明記。14名中、COIなしの宣言は4名のみ。
責任著者・David C. Hess氏はMedical College of Georgia神経内科の主任教授(2001年〜)で、2017年4月に 第27代Dean(学部長)に就任。Declaration of interestsには——Hess氏はAthersysから研究費を受け、大学経由でMultiStem細胞の特許を保有しライセンス収入を得ている。最終著者Robert W Mays氏は Athersysの共同創業者かつ従業員で特許保有者です。
そもそも、これまで何が分からなかったのか?
2017年の時点で、脳梗塞の治療には明確な「時間の壁」がありました。著者らいわく、血栓溶解薬tPA(アルテプラーゼ)は発症から4.5時間まで、血栓回収術(endovascular thrombectomy)は英米で6.0時間まで。恩恵を受けられるのは虚血性脳卒中患者の5%未満、血栓回収術を行っても最大50%は90日時点で死亡または障害を残す。どちらも「詰まった血管を開ける」治療であって「死んだ脳を治す」治療ではありません。MASTERSが狙ったのは、その空白地帯——発症24〜48時間でした。
ただし「6時間の壁」自体はその後動きました。2018年のDAWN・DEFUSE 3試験により、灌流画像などで「まだ助かる脳が残っている」と判断できる症例では血栓回収術が発症24時間まで推奨され、日本のガイドラインにも反映されています。時間が経っていても、まず救急要請してください。適応は時間だけでなく、血管と脳組織の画像、神経症状、発症前の生活の状態を合わせて判断されます。
👦 生徒:6時間を過ぎたら、もう手遅れじゃないんですか?細胞が死ぬのは最初の数時間ですよね。
🧬 エクソ太郎:二つ答えたい。まず時間の壁は動いた。「もう遅い」と自己判断して救急車を呼ばないのがいちばん危ない。そのうえで——脳梗塞は「一発の火事」ではなく「二段構えの災害」だ。一段目は血流が止まる数時間。ところが二段目がある。死んだ細胞から漏れた中身が警報になり、免疫細胞が脳へ押し寄せる。論文はこれを、虚血の傷害をさらに悪化させ、修復と回復を妨げる可能性がある、と書いた。MASTERSの的はこの二段目の火だ。
脳卒中後の最初の1週間で免疫系が活性化し、脾細胞(splenocytes)などが虚血脳を標的にして傷害を悪化させうる。その後は脾臓の萎縮を伴う末梢性の免疫抑制が続く。この二相性が、静脈内投与という戦略の支柱でした。
使われたのは MultiStem、すなわち多能性成体前駆細胞(multipotent adult progenitor cells, MAPC)。健康な非血縁ドナー由来の他家(allogeneic)細胞です。自家骨髄由来細胞では「治療的に意味のある細胞数を最初の1週間で投与できるだけの培養時間が確保できない」ため、「組織適合検査を必要としない他家細胞製品」が要ったのです。
そして決定的な空白——「他家骨髄由来細胞治療の大規模・多施設・無作為化・プラセボ対照試験は存在しなかった」。これがMASTERSの存在理由です。
👦 生徒:ほかの試験は「効きそう」と言っていたのに、もう一度確かめる必要があったんですか?
🧬 エクソ太郎:「効いた」に見えるものの正体を疑う必要があるからだよ。脳卒中の患者さんは治療をしなくても数か月で回復していくし、リハビリもする。調子の悪い日のスコアは次に測ると平均へ近づく。対照群のない試験は、この全部を「治療の効果」として計上する。
この論文で、何が分かったのか?
設計は第2相、多施設、無作為化、二重盲検、プラセボ対照、用量漸増。英米33施設、2011年10月24日の登録開始から2015年12月7日の最終追跡まで。対象は18〜83歳(当初18〜79歳)、投与直前の NIHSSが8〜20(0〜42点で高いほど重症)、MRI拡散強調画像(DWI)で前方循環の皮質梗塞が 5 mL超100 mL未満の患者。脳幹・ラクナ梗塞、重篤な併存疾患、そして脾臓摘出の既往は除外——脾摘が除外基準という一点だけで、この試験がどれほど「脾臓を介した免疫調節」に賭けていたかが分かります。
割付は3段階。Group 1(8例を3:1で割付、うち6例に400 million cells=4億個)の安全性確認後、Group 2 は1200 million cells(12億個)を3:1、Group 3 は同じ12億個を1:1で割付。主要解析は12億個を用いた用量段階のGroup 2・3——論文いわく「静脈内細胞治療として投与された最大の単回投与量」です。プラセボは細胞製剤と同じPlasmaLyte-A・DMSO・ヒト血清アルブミンを同一濃度で含み、盲検を破りかねないDMSO由来の口臭まで対照側に与えています。ただし盲検が保たれたかは検証されておらず、発熱・悪寒は 4例vs 0例と細胞群に偏っています。
なお試験途中、登録の遅れから治療ウィンドウが24〜36時間→24〜48時間へ拡大されます(2013年7月26日改訂)。理由は「細胞処理施設の稼働時間が限られていた」ため——製品側の運用制約が試験デザインを動かしたのです。
人数を正確に。試験全体では137例が無作為化され(Group 1の8例+Group 2・3の129例)、134例が投与を受けました(8例+126例)。よく引かれる「129例/126例」は12億個の用量段階であるGroup 2・3だけの数字で、その流れは適格性評価160例 → 無作為化129例(細胞67/プラセボ62)→ 同意撤回3例を除き 126例が投与(細胞65、プラセボ61)。論文はこの126例を「ITT集団」と呼びますが正確には修正ITTで、定義が揺れています。
一方、90日転帰を左右する主要な予後因子は、3つともわずかに細胞群に有利です。梗塞体積43.7 mL vs 50.9 mL、投与までの時間37.2 vs 39.3時間、再灌流療法59% vs 53%。ところが調整されたのはベースラインNIHSSのカテゴリだけで、梗塞体積も再灌流療法も施設差も入っていません。
主要安全性評価項目は達成されました。定義は投与後7日までの用量制限毒性(DLT)で、①投与後24時間以内の治験製品関連の CTCAE grade 3/4 輸注関連アレルギー反応、②7日時点の治験製品関連の grade 3/4有害事象、③治験製品関連と判定された NIHSS 4点以上の悪化——の3つ。「治験製品関連」の限定が3要件すべてに付く点は読み落とせません。結果は両群とも該当ゼロ。死亡は5例(8%)vs 9例(15%)で有意差なし(p=0.21)。ただし治験薬関連の有害事象は15例(23%)vs 5例(8%)と有意に多い(p=0.018)。
そして主要有効性評価項目は、達成できませんでした。事前規定は「day 90の多変量global stroke recovery」——①mRS(0〜6の尺度、2以下でおおむね自立)が2以下、②NIHSS総スコアの75%以上改善、③Barthel index(日常生活動作の自立度、0〜100点)が95以上を一般化推定方程式(GEE)で統合します。結果は “no difference … in global stroke recovery at day 90 (OR 1.08 [95% CI 0.55–2.09], p=0.83)“。1年時点は1.48(0.77–2.84)、p=0.24ですが、1年の評価はすべて探索的(exploratory)だと論文の脚注が明記しています。事前規定の判定時点はday 90です。
事前規定の副次評価項目も、すべて有意差なしでした。day 90はmRS ≤2が37% vs 36%(p=0.93)、NIHSS 75%以上改善が40% vs 38%(p=0.79)、Barthel index ≥95が46% vs 44%(p=0.83)で、差はいずれも1〜2パーセントポイント。excellent outcomeだけは15% vs 7% と8ポイント差ですが、p=0.10で有意に届きません。数値はどれも細胞群がわずかに上ですが、「方向が揃っている」ことを効果の証拠として読んではいけません。同じ回復度から派生した相関の強い指標で、独立した確認ではないからです。
👦 生徒:p=0.83って、「まったく同じ」ってことですよね……。
🧬 エクソ太郎:そこが落とし穴だ。p値が大きいのは「同じだと証明できた」という意味ではない。「差があるという証拠が得られなかった」だけなんだよ。95% 信頼区間は0.55–2.09。「オッズを45%下げる有害な効果」から「2倍以上に上げる有益な効果」まで、どちらも除外できていない。「効かないと証明された」ではなく、「臨床的に意味のある効果があっても検出しきれない設計だった」が正しい読み方だ。
この試験にはもうひとつの顔があります。探索的なバイオマーカー解析では、免疫応答が動いたことを示唆する群間差が観察されました。mITT(65例vs 58例)で、投与2日後に循環CD3陽性T細胞の割合が細胞群で減少・プラセボ群で増加(p=0.001)し、FoxP3陽性細胞(制御性T細胞)にも差(p=0.010)。7日後には TNF-α、interleukin 6、interleukin 1 β が低下。著者らはこれを「急性期脳卒中のヒトで細胞治療が免疫応答を修飾することを示した最初期のデータの一部(some of the first data)」としました。
ただし確定した事実ではありません。サイトカインは8種類を4時点で測定していますが、本文にあるのはp値だけで、効果量も信頼区間も付録に委ねられています(付録は本稿では未確認)。加えてプラセボ側の58例は、day 7より前に亡くなり投与後データが得られなかった3例を除いた数です——論文はこの3例を「最重症」とは書いていませんが、炎症マーカーは重症なほど高く出やすく、除外の影響は検証されていません。そして何より、免疫が動いたことと患者が回復することの因果は示されていません。
👦 生徒:免疫はちゃんと動いたのに、患者さんの回復は変わらなかった……?
🧬 エクソ太郎:そう。ここが論文のいちばん重い一行だ。狙った的(target engagement)には当たったように見えた。それでも90日後は変わらなかった。矢が的に刺さることと、その一矢で勝負が決まることは別の話なんだよ。
著者らは限界の項で、時間ウィンドウを36時間から48時間へ広げたことが効果を「希釈した可能性がある」(might have diluted)と述べ、36時間未満の患者に絞った事後解析(post hoc)を提示します。ただしglobal stroke recoveryはday 90でOR 1.64(0.75–3.60)、p=0.21、1年でも1.62(0.75–3.49)、p=0.22。併用再灌流例を除いた最も「有利に整形した」解析でもp=0.06です。有意になった項目はすべて探索的または事後解析で、事前規定のday 90解析には1つもありません。
未来はどう変わる?(臨床への道)
論文の結びは「より早い時間ウィンドウ(36時間未満)での臨床試験が計画されている(NCT02961504)」。その続きを、私たちは知っています。
第一幕:TREASURE試験(日本、第2/3相)。そのNCT02961504がTREASUREでした(Houkin Kら、JAMA Neurol 2024;81(2):154–162)。国内44施設・206例、発症18〜36時間以内に12億個を単回静注。結果は day 90のexcellent outcomeが11.5% vs 9.8%、p=0.90。MASTERSの事後解析は、事前規定で検証すると再現されなかったのです。
そして——TREASUREでも、よく似たことが起きました。1年時点の事後解析ではglobal stroke recoveryが27.9% vs 15.7%(調整後リスク差11.0%、95% CI 0.8〜21.3、p=0.04)と「有意」になるのです。事前規定の90日では差がなく、後から追加した1年の解析でだけ差が出る。ただし同一ではありません。MASTERSの1年global stroke recoveryはOR 1.48、p=0.24で有意ではなく、有意になったのはexcellent outcome(p=0.0206)とmRS ≤1(p=0.0410)——評価項目も患者背景もずれています。本当に遅れて効くのか、似た解析の構造が似た形の偽陽性を2度生んだのか。前者を支持する事前規定の証拠は1つもありません。
第二幕:MASTERS-2(第3相)。NCT03545607、300例、主要評価項目はday 365のmRSシフト解析。2023年10月10日、Athersys社は独立データ安全性モニタリング委員会(DSMB)の事前計画中間解析の結論を公表します——「計画症例数である300例ではday 365の主要評価項目を達成するには検定力が不足している」、そして安全性の問題は認められない。必要な症例数が大きいことから新規登録は一時停止されました。「効かないと結論した最終有効性解析」ではありません。しかし、約200例分のデータは2026年8月時点でも査読論文にも結果登録にもなっていません。試験に参加した人のデータが、必ず世に出るとは限らないのです。
第三幕:企業の消滅、そして今。Athersys, Inc. は2024年1月に米国連邦破産法第11章を申請し、同年4月3日、日本のHealios K.K.(ヘリオス)がMultiStemを含む実質的に全資産を取得しました。Healiosは2025年12月9日に「当面はHLCM051をARDSの治療薬として開発することを優先する」と表明し、脳梗塞は「開発方針を再評価する」としました。2026年5月14日の決算説明資料でも「Development policy review」のまま、同社サイトはグローバル第3相を「検討中」と記載しています。正式な中止ではありません。ただしMASTERSから9年、次の検証試験はまだ始まっていません。
👦 生徒:じゃあ脳卒中の細胞治療は全部ダメだったんですか?アクーゴという薬が日本で発売されたというニュースを見ましたけど。
🧬 エクソ太郎:とても大事な区別だ。アクーゴ脳内移植用注は2026年5月21日発売、脳に直接移植する細胞医薬品だ。でもね——効能・効果は「外傷性脳損傷に伴う慢性期の運動麻痺の改善」で、脳梗塞でも脳出血でもない。同じ細胞(SB623)を慢性期脳梗塞で試した163例のACTIsSIMAは主要評価項目を達成できず(p=0.6743。NCT02448641の結果登録)、外傷性脳損傷のSTEMTRAのほうが達成して先に承認まで進んだんだ。
対象疾患を読み飛ばせば、脳梗塞に効く薬が承認されたかのように誤解しかねません。正確に書きます。2026年8月時点で、脳卒中の後遺症そのものを確実に回復させると質の高い比較試験で確立した薬や再生医療等製品は、ありません。ただし「承認された効能がゼロ」ではありません。シチコリン注射液の添付文書には「脳卒中片麻痺患者の上肢機能回復促進」という効能・効果が、発症後1年以内・リハビリ併用などの条件つきで記載されています。承認された効能があることと、効果が強い証拠で裏づけられていることは別の話です。アクーゴの条件及び期限付承認も限られた症例から有効性を「推定」する制度で、同じ制度のハートシートは2024年に承認整理——「早く届ける」制度は「必ず残る」制度ではありません。
この研究をどう批判的に読むか(限界と、さらに質を高める道)
まず公平のために。この試験は、脳卒中細胞治療として明らかに一段上の証拠水準にあります。中央無作為化、プラセボ組成の完全一致、事前登録、365日追跡。そして何より——主要評価項目が陰性であることをAbstractで明記して公表したこと。デザイン論文(Int J Stroke 2014;9:381–86)は登録開始の約19か月後、2013年5月22日にオンライン公開されました(印刷版は2014年4月)。つまり2013年7月26日のプロトコル改訂より前の設計を記録した文書で、改訂後のプロトコルを記述した論文は見当たりません。事前規定の検証にはClinicalTrials.govの履歴版との突き合わせが要ります。
limitationの開示は良好です。1年時解析は探索的、事後解析は “post-hoc”、Table 2・4の脚注には「多重性の調整はしていない」と明記。ただし完全ではありません。事前に定めた探索的項目の MRI梗塞体積の変化は、本文にも表にも出てきません。逆に、Outcomesにない「初期入院日数」が表に現れ、事後解析では p=0.0164 と有意になります。測ると決めたものが出てこず、決めたと書いていないものが有意になっている。重み付けの必要な点を6つ。
① 事後解析が無作為化を壊している。Table 4の比較は「36時間以内に投与された細胞群(n=31)」対「プラセボ患者(n=61)」——細胞群だけを36時間未満に絞り、プラセボ群は24〜48時間の全例をそのまま比較対象にしているのです。「治療の効果」と「治療までの時間の効果」が交絡し、1年時点の有意差は「早く治療された患者は予後が良い」という既知の事実でも説明できます。改善策は、時間ウィンドウを無作為化の層別因子にし、比較を「細胞 <36h 対 プラセボ <36h」で対応させること。
② 検出力の前提が非現実的だった。論文は「約125例で検出力90%超」と書きますが、前提は尺度の生スコアの差ではなく二値反応率の群間差——mRS反応率で10パーセントポイント、NIHSSで20ポイント、Barthelで20ポイントです(0〜6のmRSで「10点」差は尺度上ありえません)。実測差は順に1、2、2ポイント、根拠データの引用もありません。反応者の定義も厳しすぎます。NIHSS中央値13の患者にとって「75%以上の改善」とはおよそ10点で、慣習的な意味のある変化(4点前後)の2倍以上。中等度でも意味のある改善が構造的に見逃されます。改善策は、反応者の閾値を臨床的な意味のある変化に合わせ、主要評価項目を day 90のmRS順序シフト解析単独にすること。
③ 45個前後のp値に、多重性補正がない。Table 2に18個、Table 4に18個、本文に9個以上。45回検定すれば、すべて帰無仮説が真でも平均2個は「有意」になります。そして臨床有効性で「有意」とされた所見はp=0.0081〜0.0410に収まり、1つの検定族と見た場合の目安Bonferroni基準(0.05/45 ≈ 0.0011)を1つも通過しません。改善策は、階層的検定手順の事前規定と、HolmやFDR調整後p値の併記。
④ 欠測処理が、1年時の「良い所見」を機械的に生みうる。早期脱落はプラセボ群13例・細胞群7例で、その内訳に死亡9例と5例が含まれます(脱落と死亡は別勘定ではありません)。欠測処理は last observation carried forward(LOCF)、二値アウトカムでは死亡を「非反応」扱いと明記。LOCFは脱落の多い群を不利にし、day 90で差がなく1年時にだけ差が出る時間パターンと整合します。改善策は、多重代入法を主解析にし、死亡は競合リスク枠組みかwin ratioで扱うこと。
⑤ 賭けの対象そのものが、一度も測られていない。脾摘の既往を除外基準に置くほど「脾臓を介した免疫調節」に賭けた試験なのに、著者らはこう書きます——「脾臓のサイズを定量できなかったため、MAPC治療が脾臓サイズに与えた影響を判定できなかった」。仮説の中心が観測されないまま終わったのです。改善策は、腹部超音波で脾臓サイズを経時的に実測すること。この論文が引用する文献(Vahidy 2016、Sahota 2013)自体が、ヒトの急性期脳卒中患者で脾臓の変化を測っているのです。
⑥ この患者たちは、あなたの家族に似ているか。年齢は当初18〜79歳、改訂後も18〜83歳、84歳以上は最初から除外。平均年齢は61.8歳/62.6歳、65歳以上は4割台。ラクナ梗塞と脳幹・後方循環の梗塞も対象外。最も雄弁な数字は——33施設が4年かけて無作為化できたのは137例、1施設あたり約4例。仮に効果があっても、当てはめられる範囲ははじめから狭いのです。実際、同じ薬を日本で検証したTREASUREの平均年齢は 76.5歳でした。
細胞製剤にも弱点があります。33施設で個別に解凍・調製されているのに、少なくとも主論文の本文には、解凍後の生存率(viability)、投与までの経過時間、ロット間の力価データがありません。「12億個」は名目用量です。論文が引用する Fischer UM, et al.(Stem Cells Dev 2009;18:683–92)はラットの前臨床研究で、静注細胞の大半が肺に捕捉されること(肺初回通過効果)を示しました。MASTERSの参加者で体内分布が測られたわけではありません。
👦 生徒:これだけ良い試験でも、こんなに直すところがあるんですか?
🧬 エクソ太郎:むしろ逆なんだ。批判が具体的に書けるのは、この試験が十分に透明だからだよ。単群で「投与後に良くなりました」としか書かない試験には、批判の足場すら作れない。事後解析だと明示し、多重性補正なしと脚注に書いたからこそ議論できる。検証可能であることは、それ自体が科学的な美徳だ。
エクソ太郎の視点
私自身は間葉系幹細胞(MSC)と細胞外小胞(EV)を使って、脊髄損傷(spinal cord injury, SCI)や神経疾患の回復を研究しています。いちばん刺さったのはバイオマーカーは動いたのに患者は変わらなかったという一点。動物実験で同じ動きを見たら、私は迷わず「効いている」と言うでしょう。ところがday 90はOR 1.08、p=0.83。炎症マーカーの変化は、それ自体が目的ではなく、機能回復への途中の道標にすぎないのです。
Discussionは静注細胞治療に禁欲的で、「骨髄由来細胞を静脈内投与した場合、脳への直接の侵入と生着は限定的であり、神経細胞の置換は起こりそうにない」と書きます。静注MAPCは「免疫を鎮める薬」、脳内移植型は「脳内で可塑性を促すもの」——同じ「幹細胞治療」でも狙う生物学がまるで違うのです。
ではEVは何を変えうるか。ここからは私自身がEVを研究しているという立場を明かしたうえで読んでください。MASTERSで最後まで測られなかったのは細胞がどこへ行ったかで、EVに期待するのはこの「測れなかった」を減らせる可能性です。ただし「届かなかったから効かなかった」とは結論できず、EVの力価をどう測るかという標準も確立していません。そして何より——EVや「エクソソーム点滴」が脳卒中に効くことを示したヒトの比較試験の結果は、2026年8月時点で公表されていません(無作為化試験自体は進行中です)。自由診療でエクソソーム投与を掲げるクリニックがありますが、それはMASTERSが越えられなかったハードルの手前にあります。幹細胞への注意は、そのままエクソソームにも当てはまります。
患者さんとご家族の読者へ。MASTERSのプラセボ群でも、day 90にmRS ≤2が36%、Barthel index ≥95が44% に達していました——細胞治療を受けなくても、これだけ回復した人がいたのです。日本再生医療学会も、自由診療の細胞治療は「安全性と治療効果の審査を経ているわけではない」と注意喚起しています(2022年5月)。世界最高水準のチームが4年の比較試験を行い、後続のTREASUREとMASTERS-2も答えを出せなかった——10年以上を費やして、まだ「効く」と言える段階にない。それを知っておくことが、いちばん実効性のある備えだと思います。
それでも、私はこの分野に希望を持っています。MASTERSは失敗ではなく、正しく問いを立てて、正しく答えを受け取った試験です。検討した最高用量である12億個の単回静注まで、用量制限毒性は起きませんでした——ただし最大耐用量が同定されたわけではなく、安全性の上限はまだ見えていないが正確です。ここではじめて次の問いが立ちます——足りないのは、量なのか、時期なのか、届け方なのか、それとも患者の選び方なのか。137人の患者さんとご家族が残したデータを「効かなかった話」として棚に戻さないことが、私たち後続の仕事だと思っています。
