脳卒中で倒れた直後の脳、事故で衝撃を受けた直後の脳、そして何十年もかけてゆっくり神経が死んでいくアルツハイマー病やパーキンソン病の脳——起きるきっかけはまったく違うのに、細胞レベルで見ると驚くほど同じような壊れ方をしていることが分かってきました。興奮毒性、酸化ストレス、ミトコンドリアの不調、神経炎症、そして脳を守る関所である血液脳関門(blood-brain barrier, BBB)の破綻。この共通の”壊れ方”に立ち向かう主役として長年注目されてきたのが神経栄養因子(neurotrophic factors, NTFs)です。ロシア・ベルゴロド国立研究大学の研究チームがまとめた総説論文は、NTFの生物学から実際の臨床試験のデータまでを一望し、「なぜ効くはずの薬が、患者には効かないのか」という核心的な問いに答えようとしています。
掲載誌情報
- 論文タイトル: Neurotrophic Factors in Stroke, Traumatic Brain Injury, and Neurodegeneration: A Convergent Pathophysiological and Translational Perspective(脳卒中・外傷性脳損傷・神経変性疾患における神経栄養因子——収束する病態生理と橋渡し研究の視点)
- 論文の種類: レビュー(総説)論文。著者ら自身の記載によれば、過去おおむね10年間に発表された原著論文・システマティックレビュー・メタアナリシス、および神経栄養因子研究の基礎を築いた古典的文献を統合した、ナラティブレビュー(物語型総説)です。系統的レビューではありません。
- 著者: Olesya V. Shcheblykina(責任著者), Darya A. Kostina, Mikhail V. Pokrovskii, Mikhail V. Korokin
- 所属: ロシア・ベルゴロド国立研究大学(Belgorod State National Research University)生体システム薬理学研究所(Research Institute of Pharmacology of Living Systems)
- 掲載誌: Journal of Integrative Neuroscience(IMR Press)2026年, 第25巻7号, 論文番号51543
- DOI / リンク: 10.31083/JIN51543
- 査読・掲載日: 2026年3月5日投稿、4月29日改訂、5月8日受理、7月15日出版。担当編集者はMaarten Van den Buuse氏とBettina Platt氏。
- オープンアクセス: はい(CC BY 4.0。出典を明記すれば自由に再利用・再配布できます)
- Impact Factor: 2.7(Clarivate社 2024年版Journal Citation Reports、2025年6月18日公表、神経科学分野314誌中174位、Q3)。2026年6月公表の最新版JCR(2025年データ)ではさらに上昇しており、発行元サイトは最新値として「3.3(2025年)」「Q2」を掲示しています。掲載誌はSCIE(Web of Science)、MEDLINE(PubMed)、Scopus、DOAJに収載されています。
- 掲載誌の位置づけ: 発行元自身の説明によれば、分子・細胞・システムレベルからトランスレーショナル研究まで、神経科学のあらゆる領域を対象とするオープンアクセス誌です。Scopus基準のCiteScoreは5。
- 助成: ロシア連邦科学高等教育省、国家課題番号FZWG-2026-0003
- 利益相反: 著者らは利益相反がないことを宣言しています。
責任著者・Olesya V. Shcheblykina氏について: 責任著者はベルゴロド国立研究大学の生体システム薬理学研究所に籍を置く研究者で、同大学医学部薬理学・臨床薬理学講座では准教授(доцент, Associate Professor)の教育職も務めています。共著者のPokrovskii氏・Korokin氏と同じ研究所に所属し、この3名は本論文以外にも同研究所発の複数の神経科学系論文で共同研究を重ねてきました。たとえば2025年にはアルツハイマー病モデルマウス(APPswe/PS1dE9/Blg系統)を用いた性差・組織形態学的バイオマーカー研究(Brain Sciences誌)を、2026年には外傷性脳損傷がシヌクレイン関連の転写・アミロイド斑の形態・認知機能に与える影響を調べた研究(Biomedicines誌)を発表しており、神経変性疾患と脳損傷を横断する実験神経薬理学を専門領域としていることがうかがえます。研究テーマの一貫性から見て、本総説は責任著者自身の実験的な問題意識を土台にまとめられたものと位置づけられます。なお、責任著者のORCID(0000-0003-0346-9835)には2017年9月時点の「大学院生」という古い所属情報が残っていますが、ベルゴロド国立研究大学公式の教員名簿ではすでに准教授の肩書が示されており、そちらがより現在に近い情報と考えられます。
そもそも、これまで何が分からなかったのか?
成人の中枢神経系(central nervous system, CNS)は、いったん壊れた神経回路を自力で作り直す力がきわめて乏しい組織です。だからこそ脳卒中も、外傷性脳損傷(traumatic brain injury, TBI)も、アルツハイマー病(Alzheimer’s disease, AD)やパーキンソン病(Parkinson’s disease, PD)に代表される神経変性疾患(neurodegenerative diseases, NDDs)も、いったん神経が失われると回復が難しいのです。この総説がまず示すのは、原因も発症のスピードもまるで違うこれらの病気が、細胞・分子レベルでは驚くほど似た経路をたどって神経を壊しているという事実です。
たとえば虚血性脳卒中では、血流が止まって細胞のエネルギー通貨であるATPが作れなくなると、神経細胞の膜電位が保てなくなり、興奮性の神経伝達物質グルタミン酸が大量に漏れ出します。これがNMDA受容体を過剰に刺激し、細胞内にカルシウムイオンが洪水のように流れ込む「興奮毒性(excitotoxicity)」を引き起こします。カルシウム過剰はカルパインやホスホリパーゼA2といった分解酵素を暴走させ、細胞骨格や細胞膜、DNAを傷つけます。同時に一酸化窒素合成酵素(NOS)が過剰に働き、一酸化窒素(NO)が超酸化物(O2⁻)と結びついて猛毒のペルオキシナイトライト(ONOO⁻)を生成、ミトコンドリアを直撃して活性酸素(ROS)をさらに増やします。傷ついた神経の周囲にはミクログリアが集まり、TNF-α、IL-1β、IL-6といった炎症性サイトカインをまき散らして被害を広げる——最終的に、梗塞の中心部では壊死、その周辺の「ペナンブラ(penumbra)」と呼ばれる領域ではアポトーシス(プログラムされた細胞死)によって神経細胞が失われていきます。
出血性脳卒中では、これに加えて血液そのもの(ヘモグロビンの分解産物)が直接的な毒性を持ち、頭蓋内圧の上昇による二次的な虚血も加わるため、炎症反応は虚血性脳卒中よりも一般的に強く出るとされます。TBIでは、衝撃そのものによる一次損傷に続いて、血液脳関門の破綻や浸透圧の乱れ、炎症、酸化ストレスが連鎖する二次損傷が起こります。そしてアルツハイマー病やパーキンソン病、筋萎縮性側索硬化症(ALS)といった神経変性疾患では、引き金こそ急性の事故ではなく、アミロイドβやタウタンパク質(AD)、あるいはαシヌクレイン(PD)といった異常タンパク質のゆっくりとした蓄積ですが、それに続く細胞の反応——興奮毒性、酸化ストレス、神経炎症、アポトーシス——は脳卒中やTBIと「著しく類似している」と著者らは指摘します。
👦 生徒:原因はバラバラなのに、壊れ方はほとんど同じなんですか?
🧬 エクソ太郎:そうなんだ。火事の原因が漏電でも放火でも、燃え広がり方や消火の基本原則は共通するのに似ている。だからこそ、原因ではなく「共通の壊れ方」を止める薬——神経栄養因子——が、複数の病気を横断する治療標的として長年注目されてきたんだよ。
こうした壊れ方が進む脳では、神経の生存・可塑性・再生を支える内因性の神経栄養因子そのものの発現や利用可能性が大きく低下することも分かっています。神経栄養因子を外から補う、あるいはその合成を促すことができれば、抗アポトーシスタンパク質の産生を助け、シナプスの可塑性を改善し、神経新生を促し、ミクログリアを炎症性から神経保護的な性質へ切り替え、抗酸化的にも働く——理屈のうえでは、脳卒中・TBI・神経変性疾患を横断する「万能の治療標的」になり得ると、長年にわたって考えられてきました。
この論文で、何が分かったのか?
神経栄養因子研究の出発点は1950年代、NGFの発見に遡ります。Rita Levi-MontalciniとViktor Hamburgerは、マウスの腫瘍をニワトリ胚に移植すると神経線維が旺盛に伸び出すという観察から神経成長因子(nerve growth factor, NGF)を同定し、Levi-Montalciniは1986年にノーベル生理学・医学賞を受賞しました。その後脳由来神経栄養因子(BDNF)が単離され、遺伝子クローニングによってNGFと構造的に似ていることが判明、「神経栄養因子ファミリー」という概念が生まれます。さらにニューロトロフィン-3(NT-3)とニューロトロフィン-4(NT-4)が加わり、魚類ではニューロトロフィン-6・7も見つかりましたが、これらに哺乳類のホモログはありません。
成熟したNTFは2分子が対になった二量体で、3本のジスルフィド結合からなる「システインノット」と呼ばれる構造で安定化されています。NTFはNGF・BDNF・NT-3のような狭義のニューロトロフィンだけでなく、GDNF、CNTF、インスリン様成長因子(IGF)、線維芽細胞増殖因子(bFGF)、血管内皮増殖因子(VEGF)、TGF-β、ソニックヘッジホッグ(Shh)なども含む広いファミリーです。受容体は主に2系統——高親和性のトロポミオシン受容体キナーゼ(Trk)と、低親和性でTNF受容体スーパーファミリーに属するp75神経栄養因子受容体(p75NTR)——があり、NGFはTrkA、BDNFとNT-4はTrkB、NT-3は主にTrkCに結合してRas-MAPKやPI3K-Akt経路を活性化します。一方p75NTRはすべての神経栄養因子と結合できますが、Trk受容体が存在しない状況ではむしろアポトーシスを誘導する側に働くことがある、という二面性を持ちます。
この総説が特に力を入れて論じているのが、NTFの働きが年齢と性によって大きく変わるという点です。ヒト死後脳組織を用いた研究(眼窩前頭皮質、n=209、16〜96歳)では、BDNFのmRNA量が加齢とともに進行的に低下し、興奮性・抑制性シナプス機能に関わる78個の遺伝子の発現低下と連動していました。NGFではさらに深刻な変化が報告されています。老化ラット(19〜22カ月齢)の前頭前皮質と海馬では、未成熟型のproNGFが1.8〜1.9倍に増える一方、成熟型NGFは36〜44%も減少。同時にp75NTRが1.6〜1.8倍、共受容体ソルチリンが1.8〜2.1倍に増加し、通常は神経保護的なp75NTRが、蓄積したproNGFに対する高親和性のアポトーシス誘導受容体へと”変質”してしまうのです。
👦 生徒:年をとると、栄養因子そのものが「毒」になり得るということですか?
🧬 エクソ太郎:そのとおり。若い動物では起きない現象なんだ。たとえるなら、育ち盛りの体によく効く栄養剤が、代謝の落ちた体ではかえって胃もたれを起こしてしまうようなもの。栄養因子を外から足すだけの治療が、高齢の患者ではかえって危険信号を発してしまうかもしれない——この総説が高齢者中心の臨床試験の設計に警鐘を鳴らしている理由がここにある。
NT-3ではさらに興味深いことに、効果があるかどうかが「年齢」だけでなく「損傷からの経過時間」に厳密に依存します。ラットの脊髄損傷モデルでは、アデノウイルスベクターによるNT-3過剰発現は損傷後2週間という急性期に投与すれば皮質脊髄路の軸索伸長を強く促す一方、損傷後4カ月が経った慢性期に投与しても効果が出ませんでした。急性期にのみ存在するワーラー変性由来の共誘導シグナルが、慢性期には失われてしまうためと考えられています。ただし、これは特定のベクター・損傷モデルでの比較にもとづく知見であり、すべての神経栄養因子・投与経路に一般化できる絶対的な法則ではない点には留意が必要です。
臨床データも、NTFの実際の関与を裏づけています。虚血性脳卒中の患者では、健常者と比べて血清NGF濃度がむしろ有意に高く、NGF濃度とNIHSS(脳卒中の重症度を示すスコア)のあいだには明確な逆相関が見られました。発症急性期(入院時)の血清NGF濃度が高かった患者ほど、発症3カ月後の時点での機能的予後(modified Rankin Scaleによる評価)が良好だったとする報告もあります。BDNFについても脳卒中や神経変性疾患の患者で有意な低下が確認されており、VEGFは脳卒中発症後、虚血性・出血性を問わず血中濃度が急上昇し、少なくとも90日間は高値が持続することが分かっています——いずれも、将来のバイオマーカーとしての活用可能性を示唆する所見です。
こうした基礎生物学を土台に、著者らは脳への送達手段そのものを詳しく比較しています。ウイルスベクター(AAV)、脂質ナノ粒子によるmRNA送達、エクソソーム(exosome)を含む細胞外小胞(EV)、ハイドロゲルによる徐放、細胞治療、低分子模倣薬、経鼻投与——2016年から2026年までの前臨床研究13件を比較表にまとめ、AAV遺伝子治療・脂質ナノ粒子・エクソソーム系、そしてNTFを分泌し続ける細胞移植が最も説得力のある結果を出している一方、低分子模倣薬は血液脳関門を越えられるものの選択性と効果の大きさでまだ劣ると総括しています。中でも間葉系幹細胞(MSC)由来の細胞外小胞(EV)にBDNF増強神経ペプチドを積んで経鼻投与する手法は、非侵襲性と低免疫原性を兼ね備えた有望株として位置づけられています。神経幹細胞由来エクソソームでBDNFを脳梗塞モデルに届ける手法も低免疫原性という利点を持つ有望なアプローチですが、こちらは定位注入という侵襲的な投与経路が限界として挙げられています。
そして本総説の核心は、実際にヒトで行われた6件の臨床試験(表3)の総括です。アルツハイマー病を対象としたAAV2-BDNFの海馬・嗅内皮質への直接注入(NCT05040217、第I相、進行中)、パーキンソン病に対するAAV2-GDNFの両側被殻内投与(NCT06285643、第Ib〜II相)、埋め込み型ポンプによる組換えGDNFタンパク質の間欠注入(4週間隔で計10回投与、第II相)、AAV2-neurturin(CERE-120)の被殻内投与(NCT00985517、第I相→第II/IIb相)、線維芽細胞を用いたex vivo NGF遺伝子治療(第I相、n=8)、そしてAAV2-NGFの直接注入(NCT00087789・NCT00017940、第I相→第II相)——多くの試験では安全性はおおむね良好と報告された一方、主要評価項目での統計学的に有意な効果は、ほとんどの試験で示されませんでした。
その一方で、標的到達(target engagement)や画像・生物学的指標のレベルでは前向きな所見も報告されています。対照群のない少人数(n=8)の第I相試験であるex vivo NGF遺伝子治療では、PET画像上で大脳皮質の糖代謝が有意に増加し、剖検ではコリン作動性の軸索が移植片へ密に伸長していたことが観察として報告されました。AAV2-NGFでは持続的なNGF発現とコリン作動性の活性化の兆候が、AAV2-GDNFではドパミン作動性ニューロンでのGDNF発現と運動スコアの安定化が、AAV2-BDNFでは嗅内皮質代謝の増加を示す予備データが、それぞれ報告されています。著者らはこれを「分子レベルの有効性と臨床的な便益との乖離」と表現しており、この乖離こそが本総説の結論——問題は生物学ではなく送達プラットフォームにある——を支える根拠になっています。
特にCERE-120の第II/IIb相試験は「安全性への疑問」を指摘され、12カ月時点の運動機能の主要評価項目(UPDRS)で偽手術群との有意差も示せませんでした。論文の限界の欄ではさらに、「有害事象の高い発生率」「腫瘍形成との関連の可能性が高いこと」という踏み込んだ言葉でこの試験が名指しされています。組換えGDNFの間欠注入試験でも、ジスキネジア、感覚異常、レルミット徴候、オン・オフ現象、複視といった有害事象がプラセボ群より多く(治療群間で3例以上の差)発生しています。著者らはこの結果を、論文の中で次の一文に凝縮しています——「神経変性疾患、脳卒中後遺症、脳外傷の治療のために臨床で使われている市販の神経栄養因子由来の医薬品は、現時点で一つも存在しない」。
未来はどう変わる?(臨床への道)
著者らは、神経栄養因子治療が実用化への「壁」を越えられなかった主因は生物学的妥当性の不足ではなく、脳へ安全かつ効果的、そして量産可能な形で届ける送達プラットフォームの欠如にあると結論づけています。裏を返せば、届け方さえ解決できれば、この総説が整理してきた分子はいずれも治療標的として十分な根拠を持つということです。
具体的な道筋として本総説が挙げるのは、まずCNSへの指向性を高めた次世代AAVカプシドの開発、エクソソームを工学的に改変したベクター、mRNAを運ぶ脂質ナノ粒子プラットフォーム、そして血液脳関門を非侵襲的に一時的に開く集束超音波技術です。いずれも、現行の侵襲的な脳内直接注入に代わる、より低侵襲な投与経路を目指すものです。加えて、発現量を制御できる誘導性発現システムの開発、そして病期・血中バイオマーカー濃度・受容体の遺伝子型に基づいて「誰に効くか」を絞り込む患者層別化も欠かせないと強調されています。全長タンパク質の送達が難しい場面では、低分子のTrk受容体作動薬やNTF模倣薬も、薬理学的に扱いやすい補完策として位置づけられています。実際、NT-3の治療域が損傷後の時間経過に厳密に依存することが示すように、同じ分子でも「いつ届けるか」次第で効果が正反対になり得るからです。
👦 生徒:薬そのものを改良するより、「届け方」を工夫するほうが大事なんですか?
🧬 エクソ太郎:少なくともこの総説の結論はそちらに近い。栄養因子という”手紙”の中身はもう十分に強力だと分かっている。足りないのは、正しい宛先に、正しいタイミングで、正しい量だけ届ける郵便システムのほうなんだ。
さらに著者らは、神経栄養因子による治療をリハビリテーションや標準的な薬物療法と組み合わせる統合的アプローチの重要性にも触れています。単独で神経を守る・再生させるだけでなく、可塑性を引き出す訓練と組み合わせることで、相乗的な機能回復が期待できるという発想です。結論として著者らが描く未来像は、「欠乏した栄養因子を単純に補充する」治療から、「病期や個々の生物学的背景、送達経路の特性に合わせて栄養因子シグナルを時空間的に精密に調整する」治療への転換です。
この研究をどう批判的に読むか(限界と、さらに質を高める道)
まず公正のために強調しておきたいのは、著者ら自身がこの総説の限界をかなり具体的に自己申告している点です。結論部分では「前臨床データの大半は、高度に管理された実験条件下の若い成体オスげっ歯類で得られたものであり、臨床集団が持つ生物学的な多様性を十分に捉えていない」と明記されています。加齢に伴うTrk受容体シグナルの低下、proNGFやproBDNFといったアポトーシス促進型分子の蓄積、逆行性軸索輸送の障害、持続的な神経炎症——これらはいずれも標準的な動物モデルでは再現されておらず、性ホルモンによるNTF発現・受容体感受性の調節も実験デザインに十分組み込まれていないと著者ら自身が認めています。脳卒中や神経変性疾患の実際の患者層が高齢・血管合併症・多剤併用を特徴とすることを考えると、この乖離は軽視できません。著者らはこのデータから、臨床的な含意も明確に述べています。おおよその趣旨をまとめると、①主に若い成体オスのげっ歯類で得られた前臨床の有効性データは、高齢患者で実際に得られる神経保護効果を過大評価している可能性がある、②加齢に伴うproBDNF・proNGFへのシグナル偏りは、外因性NTF投与がかえってp75NTR-ソルチリン依存性のアポトーシス経路を活性化させてしまう懸念を生む、③更年期の状態やアンドロゲン濃度は、BDNF依存的あるいはドパミン作動性の回路を標的とする臨床試験では層別化変数として考慮されるべきだ——というものです。これらは単なる限界の告白にとどまらず、次の試験設計に向けた具体的な提言になっている点で評価できます。
👦 生徒:「系統的レビューじゃない」って、具体的に何が困るんですか?
🧬 エクソ太郎:たとえるなら、図書館の司書が「関連する本を10年分、目についた順に集めてきました」と言っているようなものなんだ。集めた本の質は高いかもしれない。でも、どの棚を見て、どの本を外したのかという手順が記録されていないから、後から別の司書が同じ作業をやり直して同じ結論にたどり着けるかを確かめられない。それが「再現性」の問題なんだよ。
一方で、この総説自体の方法論にも触れておく必要があります。これは系統的レビュー(systematic review)ではなく、ナラティブレビュー(narrative review)です。本文で明言されている選定方針は「過去おおむね10年間に発表された原著論文・システマティックレビュー・メタアナリシス、および基礎を築いた古典的文献」という記述にとどまり、事前に登録されたレビュープロトコル、検索に用いた具体的なデータベース名、組み入れ・除外基準、PRISMAフローチャート、そして効果量を統合するメタ解析的な手法は、いずれも示されていません。これは総説としての価値を否定するものではなく、幅広い分野を橋渡しする視点を提供する上ではむしろ強みにもなり得ますが、「どの論文が選ばれ、どの論文が選ばれなかったのか」を読者が検証する術がない、という意味での再現性の限界は正直に認識しておくべきでしょう。改善の方向性としては、たとえば表3に整理された第I〜II相ヒト臨床試験のデータだけを対象に送達プラットフォーム別に効果量を統合する限定的なメタアナリシスを行う、あるいは今後の版でPRISMA準拠のプロトコルとGRADEによるエビデンス評価を組み込み系統的レビューへ発展させる、といった具体的な道筋が考えられます。
なお、原稿執筆にあたってAI支援ツール(Perplexity)が使われたことも著者ら自身が開示していますが、その用途は文章の読みやすさや文法・表記の校正、および図1の視覚デザインに関する提案の補助に限定されており、内容そのものの生成には使われていない、と明記されています。最終的な内容の正確性・独自性への責任は著者らが負うとされており、この点は総説の科学的な信頼性を損なうものではありません。
エクソ太郎の視点
この総説を読んでいて、思わず膝を打ったのがNT-3の話でした。損傷後2週間の急性期にアデノウイルスベクターでNT-3を届ければ皮質脊髄路の軸索伸長が起きるのに、4カ月後の慢性期に同じことをしても効果がない——これはまさに、私自身が間葉系幹細胞(MSC)由来の細胞外小胞(EV)を使った脊髄損傷(spinal cord injury, SCI)研究で日々突き当たっている壁そのものです。ワーラー変性に伴う共誘導シグナルが急性期にしか存在しないという説明は、なぜ慢性期の脊髄損傷モデルでは同じ介入の効果が乏しくなりがちなのか、そのメカニズムの一端を的確に言い当てていると感じます。もっとも、これが脊髄損傷やNT-3に限らない普遍的な法則かどうかは、まだ慎重に見極める必要があるとも思っています。それでも「いつ届けるか」が「何を届けるか」と同じくらい重要だという教訓は、栄養因子研究にもEV研究にも共通する原則なのだと、あらためて突きつけられた思いです。
さらに、この総説が表2で取り上げているBDNFを積んだ神経幹細胞由来エクソソームによる脳梗塞モデルでの神経保護、MSC由来EVに神経ペプチドを載せて経鼻投与する手法、そしてハイドロゲル中のBDNF産生MSCによる脳卒中治療は、私自身の研究フィールドと直接隣接する領域です。これらの研究に共通するのは、エクソソームやEVが持つ低免疫原性と血液脳関門を越えやすいという性質を、栄養因子という”積み荷”の運搬手段として活用している点です。単に栄養因子タンパク質を注射するのではなく、細胞が本来持つ天然のナノサイズの配送システムに載せて届ける——この発想は、本総説が繰り返し指摘する「送達こそが最大のボトルネック」という問題意識に、正面から応える方向性だと私は考えています。
臨床試験のデータが示すように、多くの試験では許容できる安全性プロファイルが確認されつつあります。ただしCERE-120やGDNF間欠注入の試験のように、有害事象の多さや腫瘍形成との関連が指摘された例も残っており、安全性の物語を単純化しすぎるべきではありません。残された課題は、安全に、正しいタイミングで、正しい患者に、正しい量を届ける精度です。脊髄損傷という、まさに「損傷からの時間」が結果を左右する疾患に向き合う者として、この総説が突きつける時間窓の重要性を、これからの自分の研究にも重ねて考えていきたいと思います。
